今回は、渋沢栄一の代表作「論語と算盤」について考察し、学びます。
「学び続け、考え続ける。」
これが僕のブログのコンセプトですが、
文字通り、学び、考えることが盛りだくさんの一冊です。
現代語訳・論語と算盤
著/渋沢栄一 守屋淳(訳)
から学んでいきましょう。
それではさっそく本題にまいります。
【自己啓発におすすめの本】渋沢栄一の名著「論語と算盤」に学ぶ
渋沢栄一といえばこの写真ですね。
2024年から新一万円札が渋沢栄一になるということで注目を浴びました。
それでは渋沢栄一はいったいどんな人物なのか?
「論語と算盤」の前書きを読むとわかりやすいのでご紹介します。
会社に出勤するため、いつも通りJRに乗って日経新聞をひらいた。
ふと目をやると、車内吊り広告にサッポロビールのうまそうな新製品の宣伝がある。
帰りに買って帰ろうと思いながら、お金を下ろすのを忘れていたことに気づき、
会社近くのみずほ銀行のATMに寄る。
そういえばもう年末、クリスマスは帝国ホテルで過ごして、
初詣は明治神宮にでも行くかなぁ。
その前に、聖路加病院に入院している祖父のお見舞いにも行かなくっちゃ・・・。
どこにでも転がっていそうな日常の心象風景のひとコマだが、
驚くなかれ、ここに出てくる固有名詞すべての設立に関わった人物が、
本書の口述者である渋沢栄一なのだ。
とてもわかりやすいですね。
渋沢栄一は、日本の実業界、資本主義の制度を設計した人物であり、
なんと500社近くの設立に関わってきました。
これが「近代日本の設計者の一人」に数えられる偉人であり、
「日本資本主義の父」「実業界の父」と呼ばれる所以なのです。
現代の経済活動を考える
さて、論語と算盤というタイトルですが、
これは言い換えると「道徳と経済」です。
渋沢栄一は、
「道理を持って、正しい道を踏んで経済活動せよ。」
「論語と算盤(道徳と経済)の調和が大事なのだ。」
つまり、「まっとうにお金を稼ごう」という王道を説いています。
これが今の社会にもそのまま当てはまってしまうんです。
インターネットの普及により、誰でも簡単に情報発信が可能になり、
ネットビジネスもできるようになった。
副業が解禁され、起業もしやすくなり、明らかに個人で稼げる時代になった。
僕はとても素晴らしいと思っています。
一昔前ではとても考えられなかったし、僕自身、自由に豊かに生きる手段として、インターネットの恩恵を受けている一人として、それを心から実感しているから。
一方で、今の世の中の仕組みを知り、資本主義を知ってしまうと、渋沢栄一が描いた資本主義とは乖離していることに気づきます。
「日本はオワコン」
「税金の高い日本からは絶対に出るべきだ」
などという言葉をたくさん稼いでいる若い世代から聞くようになりました。
確かにそうなのかもしれません。
しかし歴史を知り、過去の偉人の叡智に触れることや、畏敬の念を抱くことは、
素直な心を育み、全能感や自我の肥大を抑制したり、人格向上にも繋がります。
現代に生きる我々は今一度、
渋沢栄一が描いた、日本における資本主義の原点を知っておく必要があると思うのです。
すでに稼いでいる、あるいはこれから稼ごうとしている人に「論語と算盤」をおすすめしたい。
国家観を学ぶ
この本から学ぶものは何か?
僕が真っ先に感じたのは、国家観です。
これが現代の日本人に圧倒的に欠けている。
変化する令和の時代を生き抜くために、この本から国家観という大事なものを学んでいただきたいと心から思うのです。
国家社会を構成するのは人である
人はただ一人では何もできない存在だ。
国家社会の助けがあって、初めて自分でも利益が上げられ、安全に生きていくことができる。
もし国家社会がなかったなら、誰も満足にこの世の中で生きていくことは不可能だろう。
これを思えば、富を手にすればするほど、社会から助けてもらっていることになる。
その国の枠組みばかりが整備されても、それを使いこなす人の知識や能力が伴っていなければ、本当の文明国とは言えないのだ。
本当の「文明」とは、すべての枠組みがきちんと備わり、そのうえで一般国民の人格と知恵、能力が揃うことで、初めていえることなのだ。
資本主義社会の仕組みを知れば、その実態にうんざりしてしまう。
気づいている者は、いかに損しないように、資本者側に立つかを考える。
渋沢栄一が作った資本主義社会は約150年が経過した今、生きるのに厳しい社会だと口々に言われている。
たしかに税金はたくさん取られ、年金は当てにできない。
人口減は続き少子高齢化は加速しており、明るい未来を想像できる人は少ない。
が、そもそもこの日本という国に生まれた時点で、羨ましいほど幸せであることを自覚している人も少ないのも事実。
「国家社会がなかったなら、誰も満足にこの世の中で生きていくことは不可能だろう。」
この意味を本当に理解している人は、ほんの一握りでしょう。
日本に生まれ、生きていることは当たり前ではない。
「ありがとう」の反対語は「当たり前」とよく言うが、日本人として日本に生まれたことは「有難い」ことだと思う。
これを自分の中に根幹として持っているならば、批判したって全然構わないと思う。
しかし、実態としては、全く実相を掴めていない曇りまなこで社会を見ている人が、堂々と日本の社会を批判しているように見えてならない。
これは論語(道徳)の部分が欠如しているからに他ならないと感じている。
渋沢栄一のいう「本当の文明」を構成する「人」が、今現在も進行形で成熟していないと言える。
思いやりの道
「金持ちがいるから、貧しい人々が生まれてしまうのだ」
などといった考え方で、世の中の人がみな、社会からお金持ちを追い出そうとしたら、どうやって国に豊かさや力強さをもたらせばよいのだろう。
個人の豊かさとは、すなわち国家の豊かさだ。個人が豊かになりたいと思わないで、どうして国が豊かになっていくだろう。
国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々や日夜努力するのだ。
その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。
(中略)
と、流されるように放置してしまえば、ついには取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうのも自然の結果なのだ。
だから、わざわいを小さいうちに防ぐ手段として、ぜひとも「思いやりの道」を盛り上げていくよう切望する。
「金持ちがいるから、貧しい人々が生まれてしまうのだ」という考え方が今の日本にはびこっている。だから「日本はオワコン」という言葉も出てくるのはある意味無理もない。
あらためて、個人と国家の関係を、しっかりと自分の頭で考えてみることが必要だ。これは今の国家と個人、両者にとって必要なことだと心から思う。
やはり論語と算盤の一致が大切ですね。
正しく経済活動を行うためには「道徳」が必要である
論語と算盤では、経済活動と道徳を一致させることが重要だと説いていますが、僕がこの本を読んだ印象では、特に道徳の方に重きを置いていると感じた。
道徳の大切さを一人でも多くの人に知って欲しい。そんな強い思いが伝わる本であると感じており、この道徳(論語)の部分は力を入れて考察してみたいと思います。
中国の失敗
今から千年ばかり前の宋の時代に、中国の学者が、今述べたのと同じなりゆきに陥ったことがある。
社会正義のための道徳を主張したのはいいのだが、現実に立脚したうえで「物事はこのような順序で、こう進んでいくべきだ」といった考えの道筋をとらなかった。
逆に、頭でっかちの理論を振りかざし、利益を掴むことを否定してかかったのだ。その結果、人々の元気がなくなり、国家も衰えて弱くなってしまった。
では、経済活動を重視し、「自分の利益になりさえすればよい」「他人などどうでもよい」という考えの方に基づけばよいのだろうか。
現在の中国の一部風潮や、元王朝などは、まさしくこのような様子であった。
自分のことばかり考え、国家も関係ない、自分さえよければいいといったあげく、国家が機能しなくなり、その権威は失われてしまった。
「まず国家がしっかりしなくては、個人もダメになる」と腰をすえて考える人など、ほとんどいなくなる結果になったのだ。
宋の時代は利益を得ることを否定し、社会正義のための道徳に走り、国が滅んだ。
渋沢栄一が言いたいことは、道徳だけでも利益だけでもダメだ。どちらか一方だけでなく、両方がバランスよく機能していることが大事である。
だから「論語と算盤」であり、「道徳と経済活動」という秀逸なタイトルなんですね。そう思いました。
「頭でっかちの机上の空論ではなく、現実に立脚しろ」というこのスタンスが、僕が強く共感するところでもあります。
「あの人は頭の中がお花畑だ」という言葉を聞くことがしばしばあります。こういうことだと思うんですよ。
我々が生きているのは今であり現実です。こういった過去の歴史から学び、リアルに想像して疑似体験をし、自らの知見に取り込んでいくんです。
そういった意味でも、とても学びになるエピソードだと感じたのでご紹介しました。
お金はよく集めて、よく使おう
お金は社会の力をあらわすための大切な道具でもある。
お金を大切にするのはもちろん正しいことだが、必要な場合にうまく使っていくのも、それに劣らずよいことなのだ。
よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長をうながすことを、心ある人はぜひとも心がけて欲しい。
お金の本質を本当に知っている人なら、よく集める一方で、よく使っていくべきなのだ。
よく使うとは、正しく支出することであって、よい事柄に使っていくことを意味する。
(中略)
お金とは大切にすべきものであり、同時に軽蔑すべきものでもある。ではどうすれば大切にすべきものとなるのか。
それを決めるのはすべて所有者の人格によるのである。
このあたりの話なんかは、渋沢栄一の思想をよく表していますよね。まさにこれが本質であり、「論語と算盤」から学ぶことはこの一点と言っても良い気がします。
自分磨きの重要性
「大学」という古典にある、
「格物良知 ー モノの本質を掴んで理解する」
という教えや、王陽明という思想家の説いた、
「致良知 ー 心の素の正しさを発揮する」
といった考え方は、すべて自分を磨くことを意味している。自分磨きは、土人形を造るのとはわけが違う。自分の心を正しくして、魂の輝きを放つことなのだ。
自分を磨けば磨くほど、その人は何かを判断するさいに善悪がはっきり分かるようになる。
だから、選択肢に迷うことなく、ごく自然に決断できるようになるのである。
僕も全く同意なのですが、自分磨きや人間学を学ぶとどんな効果があるのかというと、モノの本質を掴めるようになることと、判断の際に善悪がはっきりわかるようになります。
これができるようになると、世の中がクリアに見えてきます。
雑多に溢れかえる情報の中から、取捨選択ができるようになり、判断を間違えないようになってきます。
本質を掴むとはこういうことなんだと実感します。
少しでも、国民が賢くなることで、国はより強くなっていきます。国民が判断を間違えなければ、国もそうなっていきます。
国家のレベルは国民の民度に比例します。今の日本がオワコンというなら、その日本を構成する国民もオワコンであると言えてしまうのです。
つまり、自分磨きが不足していることに気付かされてしまうんですね。
終わりに
「まっとうにお金を稼ぎ、国家も国民も豊かになる」
これが渋沢栄一が望んだことであり、自分を磨き、道徳を身に付けることを切望したのでしょう。
時代の変化が激しい「令和の時代」にぜひ読んでほしい一冊です。
「論語と算盤」という名著をご紹介させていただきました。
では、また。